遠藤美月が9.10後楽園で引退、アイガー昇華の想いも吐露「すごい世界を見させてもらえて幸せだった」

現在、フリーランスで活動している遠藤美月が9月10日(日)後楽園ホールで開催される遠藤美月・沖野小百合引退・アイガー昇華記念大会『打ち上げ花火』に向けてプロレスTODAY編集部に来社した。

遠藤は2023年3月に記者会見にて引退を発表、その際には引退の理由として「やりきった所まで頑張ろうと思った、それが今だった」と語っていた。

プロレスリングWAVEの二上会長は、ジャパン女子プロレス時代に靴をそろえる所から教えた後輩とあって、今回の引退ロードの一連のサポートを買って出たことにより引退興行の開催となった。

友達のアイガーの昇華、沖野小百合の引退など注目の大会であるが、遠藤に現在の心境やレスラー人生の振り返り、自身やアイガーの試合についてなどを語ってもらった。

①引退が迫った心境

ーー9月10日後楽園ホール『遠藤美月・沖野小百合引退・アイガー昇華記念大会『打ち上げ花火』迫ってきましたね。

気づけばあと少しです。

ーー現時点で周りの人からも、あと何日だねってよく言われると思いますけどうですか?

それを聞くたびドキドキします(笑)目があった瞬間に絶対言われると思うから横にさっと逃げたりして。

ーーご本人的に実感はいかがですか?

8月に入ってからかな?試合が終わったときに、この風景もあと少しかって思うと、ジーンとくる気持ちが出てきました。

ーー昔のこともいろいろ思い出したりだとか、実際大会終わってからの方がもしかしたらいろいろと来るのかもわかりませんね。

こないだ後楽園ホールで写真撮りましたよリングの上で(笑)普段こんなとこで撮ったことないのになと思いながら撮っとくかなんいって。

ーーやはり普段やらないことも最後が決まっていると、こういったこともやっておきたいみたいなことってやっぱりありますよね。

ありますよ。本当にもう、この風景が最後なんだとか思っちゃいます。

②33年のレスラー人生を振り返って
・1991年:ジャパン女子でのデビュー
・1992年:LLPW入団
・2007年:LLPWでの社長就任
・2022年:8月をもってLLPW-Xを退団。フリーとして活動。

ーー胸に去来するものっていうものも、それぞれあるんじゃないかなと思いますが、33年のレスラー人生のピリオドということで、1991年のジャパン女子プロレスでのGAMIさん(二上美紀子・現プロレスリングWAVE会長)とのデビュー戦ですね。

私は二上さんって呼ぶんです。GAMIさんはあだ名だったんです。だから後輩とかがGAMIさん、GAMIさんって呼んでると、ドキドキしちゃうんですよ。すごいなみんなあだ名で呼んで!と思ってたから私は二上さんっていってるんですよ。

ーー当時はどんな先輩でしたか?

怖かったですよ。でも走れるし、体力もあるし、もう全然悪いところはなかったです。全部できる人だったので…だから言われたら「はいっ!」て言うしかないですね。

ーー3月の引退発表会見でも、2人の関係性が出てましたね。


©プロレスリングWAVE

でちゃうんですね(笑)

ーーやっぱり横にいるとデビュー戦の相手ですから意識しますよね。

私、玄関で靴を揃える所から教えてくれました。同じ寮に入っていたので「こらー!揃えろ」って。

ーー先輩とのそういう思い出もありながらデビューを果たし、翌年にLLPWに入団されましたが、その辺りの思い出はいかがでしょうか?

風間(ルミ)さん、神取(忍)さんが、上に立ってみんなを引っ張っていってる感じです。その時はデビューして2年目ぐらいですね。色々とわからなかったです。私はとにかくプロレスがしたい、ただそれだけでもうついていくことしかできなかったので。プロレスラーとしてデビューまですごいつらかったんですよ。走るの大嫌いだったから、ランニングとか。八王子に寮があったんで、高尾山まで走ってって基礎体力トレーニングとか、そういうのはすごいつらくて、だから辞めるっていうのは頭になかったんですよね。これやめたら高尾山の苦労は何だったんだとか思うとやめれなくて、今まで来たっていう感じです。

ーーその苦労したものを無駄にしたくなかったっていう感じだったのですね。

そうですね。本当に無駄にしたくなかったです。

ーースクワット1,000回とかされたっていうのもお聞きしましたが、当時の方がよりしんどかったじゃないですか?

当時、先輩が10何人いて、その下で一緒にやってたんで、サボることなんてできなかった(笑)

ーー厳しい先輩もいっぱいいたってことですね。

だからできたと思うんです。結構怪我も少ない方だと思うので、最初にやってきたからこそだと思いますね。

ーー当時は他団体対抗戦とかもいっぱいあって、各選手同士も仲悪かった感じがしていました。

別団体同士でしたからね。接する機会があんまりなかったので余計ですよね。神取さんとかも廊下で他の選手に合わせられないですね、それぐらいのピリピリ感がありました。

ーーそういうトップ選手の下についている選手の皆さんはヒヤヒヤなんじゃないですか。

ヒヤヒヤですし、もうドッキドキでした。

ーー風間さん(2021年死去)とは私も交流がありましたので、亡くなられた時は本当に悲しい思いをしたんですけれども当時はいかがですか?

本当に頼りになる方だったんです。風間さんもそうですし、ハーレー斉藤さん(2016年死去)もそうだし。本当に頼ってたから…

ーープロレス続けていくと出会いと別れみたいなものがありますね。

早すぎた…。

ーー本当に早すぎましたね。いろいろレスラー人生やってるうちに、2007年に今度は社長になってくれと言われた時はどうでしたか?

青天の霹靂、びっくらこいたって感じですよ。

ーー社長業はいかがでしたか。

私が思ったのはほんと試合がしたかった。そんなに多くなかったので、もう1試合でも多く試合をしたいっていう。「私が試合やるよー!」って思ったけどそんなうまくいかないですね。やりたいだけでことは進まなかったです。

ーー経営っていうのは本当に、特殊な部分で多くの心労も抱えますし、プロレスラーやりながら社長やるっていうのはなかなか大変ですよね。

試合に集中できないっていう…1年9ヶ月社長をやったんですけど、そこであるときに私はなんでここにいるんだろうと思って、プロレスやりたいからプロレスの世界に入ったっていうのもあったので色々と大変でした。

ーーでも今のプロレスラーの中でも代表者、もしくは社長経験してるレスラーって少ないじゃないですか。全プロレスラーが今1,000人ぐらいいるって言われてるんですけど、その中でも5%いるかいないかぐらいじゃないすか?

頭があってやれればよかったですけど、本当に何もわからないまま、だから普通の人からしたら、「アホか」って(笑)

ーーでもそれだけプロレスに対してピュアだったんじゃないかなって気はします。やっぱりやり続けたいとか守っていきたいとか、もっとみんなを輝かせてあげたいっていう気持ちが、その行動に最終的に繋がったと思うので。

社長になり始めるときにある人から「無理はするなよ」って言われて。「無理をしすぎると、ついてきてくれる子を悲しませちゃう」ってなんだろうって思ったけど、最後らへんに、ああこういうことなんだなって、なるほどって。

ーー人生経験の中では、その辺が一つの転機にもなってるのかもわかりませんし、経験を振り返って否定することはする必要ないと思いますね。

でも社長をやったことに対して後悔はしてないです。大変だったけど、自分が選んで自分が決めたことだから。

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