【ジャイアント馬場】伝記絵本『うえをむいてあるこう』伊豆修善寺トークショーにスタン・ハンセンさんが初めて家族で登壇

⑤全日本プロレスでの引退式

常松:それから長い月日が経ち、1999年に馬場さんは亡くなってしまいます。

ハンセン:私とババは「友達」という関係ではありませんが、お互い深くリスペクトしてて、信頼がありました。だからババが亡くなったときはショックでした。ジャンボ鶴田が後の社長になるべきだったんですが、結局彼もすぐに亡くなってしまい、全日本プロレスに大きな穴が開いてしまったように感じました。

常松:それでも全日本プロレスに上がり続けた。

ハンセン:だからこそ全日本プロレスを支えようと思いました。その後、私も選手としてのピークを越えて、だんだん体が効かなくなっていきます。怪我もあり、100%全力で試合することができなくなってきて引退を決めました。そうしたら、ミセス・モトコ(馬場元子)が東京ドームのババの三回忌の大会ですばらしい引退式をやってくれたんです。6万人の大観衆の前で、選手や関係者もたくさん駆けつけてくれました。家族も全員、来場しました。未だに忘れられない、一生の思い出です。

常松:ハンセンさんは、もちろんアメリカでもレジェンドなんですけども、キャリアの多くは日本での戦いでした。日本での戦いを選んだことは、ハンセンさんのプロレス人生にとって良かったことでしょうか?

ハンセン:まったく後悔はしてないし、今まで自分がした中で一番賢い選択です。私は日本に来て、日本という国、日本のリングに恋をした。そしてすばらしい対戦相手たちと巡り会えた。そして、日本人と恋に落ちて結婚した。だから決して間違いではなかったです。

 

⑥テリー・ファンクへの想い

常松:プロレス入りのきっかけとなったテリー・ファンクさんは昨年惜しくも亡くなってしまいました。テリーさんに対しての想いを聞かせてください。

ハンセン:NFLを辞めて、フットボール選手としてのキャリアを終えてから、中学校でフットボールのコーチをしながら小学生の体育の先生をしていたんですよ。その頃は月給が477ドルだったんです。でも、それだけで生活するのは難しくて。家賃も払えないし、車も買えない、家族を養えないんです。たまたまテリーと話していたら、プロレスやってみないか?って誘われたんです。「上手くいけば、稼げるかもしれないぞ」と言うんです。

常松:お金の問題があったんですね。

ハンセン:それで「いくらもらえるんだ?」って聞いたら、350ドルから400ドルぐらいだと。なんだそれじゃ教師より安いじゃないかとがっかりしてしまいました。そうしたらテリーが「それは月給じゃなくて週給だよ」って言うんです。私は、すぐに彼についていこうと決めました。テリーに「明日学校辞めて、プロレス入りする」って言ったら、「学校はきちんとした形で辞めてからにしろ」って言われたんです。そこから、すべてが始まりました。

常松:そうやってデビューされて、ずっと戦い続けてこられたんですね。

ハンセン:そのときテリーと、彼の父であるドリー・ファンク・シニアと話して、とりあえず3年間やってみてどこまでいけるかやってみようということになったんです。3年ぐらいでのし上がったらその先のキャリアを考えるし、それまでに出世できなければ、また教師に戻ろうと考えてたんですよ。

常松:結果27年のキャリアになりました。

ハンセン:若い頃、私はちょっとテリーに見た目が似てたんですよ(笑)昔デートで女の子と映画館に行ったんです。そうしたらテリー・ファンクと間違えられて、知らない人からサインくれって紙を出されて、しょうがないから「Terry Funk」ってサインしました(笑)。その後、テリーにはちゃんと白状しましたよ。テリーは私と同じ大学で、だいぶ先輩なんですけど、フットボールをやってました。テリーが私に注目してくれたきっかけも「お前に似たやつがいるらしいぞ」っていう噂が彼の耳に入ったんです。それで私のことを気にかけてくれるようになったんですよね。

常松:テリーさんのおかげでハンセンさんがレスラーの道を選んでくれて本当にありがたいです(笑)ここで、第一部を終わります。ありがとうございました!

➡次ページ(第二部:ユミ夫人、長男シェイバーさんも登場)へ続く

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