『プロレス秘史1972-1999』<小佐野景浩氏インタビュー②>週刊ゴング時代、熱血プロレスティーチャーのこれから!

【週刊ゴング時代】

–そして今度、週刊ゴング時代のことをお伺いしたいのですが、当時は週刊プロレスと週刊ゴングが競り合っていましたが、それぞれ別の視点から書かれていて、読者としては両方楽しませていただいていました。誌面の使い方なんかも違いましたよね?

 

小佐野:週プロは外からアプローチしている報道の仕方なんですよね。ゴングは村の報道の仕方なんですよ。というのは、団体と一緒に物を作り上げているんだと意識が我々の中ですごい強かったんですよね。そういう発信の仕方をたぶんしてたと思いますね。いろんな団体と仲良く一緒にプロレスを作っていこうと思っていたから、それは編集長の竹内さんの方針だったんですよね。

 

–そういうお考えだったんですね。

 

小佐野:竹内さんがすごかったのは、あの馬場と猪木が対立してたあの時代に新日本とも全日本ともすごく仲がよかったという。それはやっぱりすごいですよね。僕が下っ端の時とか、電話を取ったりすると馬場元子さんから「竹ちゃんいますか?」って。または「もしもし小佐野?竹内の坊やいる?」って電話があって「あ、新間さんだ」って。そんな感じでしたからね。だから竹内さんは両団体の事情を全て知っていましたね。で、たぶん、馬場さん側も猪木さん側もそれを分かってたと思います。ただ竹内さんがすごいのは、全日本で知った情報を絶対に新日本に言わないし、新日本の情報を絶対に全日本に言わないから、だから信頼されてたんだと思いますね。だからいろんな記事が書けて、結構、新聞記者からは嫌がられましたね。ゴングの新聞広告を見ると、結構知らないことが載ってて、そうするとデスクから「これ何なんだよ、お前何取材してんだよ!」って言われちゃうって。

 

–それは面白いですね。

 

小佐野:だから一時期、会場行くの嫌でしたよ。先輩記者からいじめられるから(笑)。「お前のところの記事がどうのこうの」って。「いや、僕は知らないですよ」って。でも週刊になったときに、竹内さんは週刊にタッチするのを止めたんですよ。「そうすると書きたくない情報も書かなきゃいけなくなっちゃうのが嫌だから、俺は週刊にはタッチしないよ」って。なので週刊になったら我々に任されちゃったっていう。

 

–週刊を作るのって今までともスパンが違いますし、相当体力いるんじゃないかなと思いますけど。

 

小佐野:あと僕がプレッシャーだったのは、週刊になって初めて全日本プロレスの担当を言い渡されたんですよ。月刊時代も全日本の選手には取材もしてましたけど、その時の僕としては新日本の選手との関係のほうがはるかに密なんですよ。「全日本担当? まいったな」って。で行ってみると、1シリーズの間、馬場さん口きいてくれなかったですからね。様子見てるんですよね。で、まともに答えてくれないし、だから会場に行くたびに必ず馬場さんのところに行ってたんですよ。でもなかなか通じなくてちょっと落ち込むじゃないですか。でもそうしてたら竹内さんが「馬場さんが、竹ちゃんとこの若い子、結構見込みがあるだろって言ってたよ」って。で、1シリーズ終わったら、いきなり普通に話してくれるようになって、ご飯も誘ってくれるようになって。

 

–やっぱりそういう人間をしっかり見極めてるんですね。

 

小佐野:猪木さんは誰でも受け入れてくれるんですよ。馬場さんはそうじゃなかったですね。後で分かったのは、新しい新聞記者が来たりするじゃないですか。みんなで囲んでて、その人が席を外したりすると顔見知りの記者達に「あいつは大丈夫か?」、「あいつは信用していいやつなのか?」って聞くんですよ。。で、「あいつはいいやつですよ」って言うと、「そうか」と。そして仲間に入れる。だから馬場さんは身内しか受け入れないっていう人でしたね。

 

–信用されるまで大変ですね。

 

小佐野:大変でしたね。それにあの頃はマスコミが控室に自由に出入りできたんですけど、いろんな空気感とかもあるので新人の頃はなかなか難しかったですね。僕は18歳からこの業界にいるので、ファンと間違えられちゃうことも多くて。選手に「入って来ちゃ駄目だよ」と止められたり怒られたりすることも多かったし(笑)。
まあでもそんな感じでゴングは団体と一緒に作り上げていくという気持ちが強かったですね。
じゃあマスコミじゃないって言われるかもしれないけど、そうかもしれないけどプロレス界が盛り上がればいいから。俺らが裏で動くことによって、ファンが見たかった試合が見れたらそれでいいことだなって思うし。

 

–裏ネタでいうと、『三者三様』とかもありましたよね。ああいうのって批判とかなかったですか?

 

小佐野:あとは僕なんかいつも考えていたのは、いつもいい記事が書けるわけじゃないじゃないですか。時には批判が必要でしょ。
そのときには「あいつが書くんだから仕方がない」って言われるようになりたいなって思ったの。相手が納得するような「あいつが書くんだったらしょうがない、確かにそうだな」って。

 

–マスコミとしては、批判は結構勇気がいることじゃなかったですか?

 

小佐野:でもそのときは若かったこともあるんですけれども、信頼が築けてるって自分では思ってたんで、結構ためらいがなかったですよ。でも全日本プロレスから取材拒否3回くらいましたけどね(笑)。

 

–えっ、3回もですか!?

 

小佐野:週プロは取材拒否くらったとか書くけれど、うちは書かないスタイルだから、裏で実は取材拒否受けてて、ある時期、全日本プロレスのリングサイドの写真がなかったりしますから。全部2階から撮ってます。リングサイドは入れないけど、場外からは撮れるじゃないですか。だから、ジャンボ鶴田がブッチャーと試合してるとき、フェンスを開けて外まで出てきてくれて。それは撮れるじゃないですか、それを大きく使えるという。

 

–そんなこともあったんですね。

 

小佐野:だから真剣勝負はしてました、そういう意味で。

 

–ある部分、中に入って一緒に作り上げていく部分と、提言しなくてはいけないところは言うという。

 

小佐野:そういうときはガチンコ勝負ですよね。でも、今のプロレス界は難しいかもしれないなぁ。あとはそれをやることで、相手方なり団体が、決定的なダメージを受けちゃう場合はやっぱ出来ないですよね。猪木さんがあんなスキャンダル王だったのも、猪木さんはどれだけ書いても潰れない人で、むしろそれをエネルギーに変える人って分かってるからみんな書けたんですよ。

 

–よいしょするとかではないですけど、団体や選手があってこそのマスコミですもんね。

 

小佐野:あと「ふざけるなよ」って奮起してよくなってくれるといいんだけど、それが原因で衰退されちゃったら元も子もないから。それが難しいんですよね。

 

–一時期、新日本プロレスがブシロード体制になって、リングサイドカメラマンを減らしてくれっていうのがありましたよね。マスコミさん側からの反発がありましたが、WWE方式を取り入れようとしていた時期もありましたね。

 

小佐野:写真をオフィシャルで準備するのを使用してくれと、でもあれは駄目ですよね。ということは、新日本に批判的なところには写真を貸してくれない可能性が出てきますからね。

 

–偏った情報しか流れなくなる恐れがありますもんね。

 

小佐野:だから一強時代になるのはよくないんですよ。たぶん力道山時代、力道山が亡くなった後も日本プロレス一団体時代というのは、マスコミも大変だったと思いますよ。だって批判したら、「お前のところは来るな」って言われて終わっちゃうから。

 

–そういう意味では各団体頑張って欲しいですよね。

 

小佐野:やっぱりパワーバランスの問題で。今、新日本プロレスさんが好調なのはいいことなんだけど、他が頑張ってくれないとやっぱりバランスが悪い。やっぱり新日本だけ今は別格ですよね。会社としても、もう他の団体とは別物ですよね。同じ業種とは思えない、もう他の団体と比べると別の業種のようですよね。

 

–小佐野さんのおっしゃる通り、他の団体も力をつけてパワーバランスがもう少し均等になるといいですよね。

 

小佐野:やっぱり周りも手を貸して、みんなで盛り上げていかないと難しいですけどね。

 

⇒次ページに続く(熱血プロレスティーチャーのこれから)

 

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